もっと苔むしてましたが
ボクは祖母である、おマツさんに結構厳しく躾けられました。
良く人様から姿勢が良いと褒められますが、これは祖母の訓育のたまものです。
猫背で顎を出していたりすると「姿勢が悪いっ」と厳しい言葉が飛び、常に祖母の横にある針山の差しが飛ぶこともありました。
これは現在最も有り難いと感じることですが、ボクが同じことを娘に言っても、全く効果がないのはなぜなのでしょう。
祖母は基本的に厳しいのですね。いろいろと。でもまあ、手を挙げられた記憶はありません。そんなに悪い子でもなかったし。
彼女の意見の基準は単純です。
曰く。
「昔の兵隊さんは云々」
耳タコで聞かされたのが、南方に送られた兵隊さんは、灼熱地獄の中飲み水がなくて泥を踏みしめて染み出した水を飲んでいたと・・・。
見たんかい!!
大体、高度経済成長の幼児にそんな極限状況な描写をされても、っちゅう話ですわ。
いや、幼かった当時ですら、そんな感じで聞いていましたね。
大体、ボクは神経質で、良く祖母から「カンショウヤミ(疳性病み?)」と言われていました。細かいことが気になり、汚れとかに敏感だったのでしょう。
それは今でもそのままです。
電車の吊革持てない派です。
よそんちのご飯が食べられない派です。
ボクに対して、男の子としてそれが許せなかったのでしょう。
良く叱られたものです。
祖母の記憶を思いつくままに書いていきます。
祖母は煙管でタバコを吸っていました。もしくは紙巻たばこ「しんせい」。
良くタバコを買いに行かされたものです。
今ではありえませんが、昔のタバコ屋さんは、こどものお使いで売ってくれたのです。
煙草盆を前に置いて、煙管を吹かせたいたのを覚えています。
粋な所作でしたね。
粋といえば、見たことはありませんが、祖母は三味線も弾けたようです。嗜みとして習っていたのでしょうか。
祖母は時代劇を観るのが好きでした。ある時、お気に入りの時代劇を観ていると、ある登場人物が三味線を弾いているシーンがありました。
どうやらその俳優は三味線が弾けなかったらしく、当て振りで演技をしていたようなのです。
その所作を見た途端、祖母はぼそっと「そんな手つきで三味線が引けるかいな。」と吐き捨てるように言いました。
普段、テレビにそれほど突っ込んだりはしないので、おそらく、そうなのでしょう。
おぼろげですが、幼かったボクは「おばあちゃん、三味線弾けるの?」と尋ねたように記憶しています。
粋とは違いますが、彼女は若いときに東京に住んでいた事があるようです。
で、いつも「海苔の佃煮 磯自慢」(もしくはそれに類するもの)ばかりを食べていたとのことです。
なぜかというと、他にいろいろと注文をすると会話が発生し、「これおくんなはれ。」などというと、失笑され、それが苦痛であったからということです。多少誇張はあるとは思いますが、おそらく事実でしょう。
今、東京に言っても普通に周りから関西弁が聞こえてきますので、隔世の感はあります。
祖母が倒れたとき、ボクがいました。というか、祖母の他にはボクしかいませんでした。
自宅で突然苦しみだし吐血をしました。鮮血ではなく、血の塊を履いたのでした。
まだ10代で気が動転していたボクはなぜかご近所の仲良しのおばさんに電話をし、かかりつけ医に電話をするように言われました。
本来ならば、当然119番救急車なのですが、なぜかその時はそんな当然のことも思いつかない。
往診の後先かは覚えていませんが、ボクは祖母を移動させるために抱きかかえました。上半身を抱きかかえた途端、非常に重く、手が滑って背中から落としてしまいました。
その時に見上げた祖母の目が「何すんねん!」と叫んでいるようで表示怖かった。忘れられません。
その後入院し、しばらく患ったあとに亡くなりました。
一度、病室で付き添っていたとき、爪を切ってほしいと言われました。
祖母がボクに対してそんな風に甘えたようなことを言ったのは後にも先にもそれだけです。
ボクは爪切りで祖母の爪を切りました。
祖母の爪は乾ききっていて、まるでウエハースをパキパキサクサクと剪んでいるようでした。
しかし、思えばそれがボクが祖母に対して行った唯一の孝行なのかもしれません。
ボクが生まれる前のことは知りませんが、そんな風に一生懸命といういうよりは、淡々と送った生涯だったように思います。
祖母は一生は幸せだったでしょうか。